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お客様は実験台? [雑感]

先日、会社のある部署が、あるWebベースのシステムを導入したと言うので、利用方法についての説明会があった。
モバイル端末を活用したかなり大規模なもので、確かにその目的とする機能がフルに動けば結構なシステムのようである。
大きな会場には関係者がわんさかと集まり、事前通知の通りモバイル端末を持参して説明を聞いていた。
システム導入部署は、事務屋の部署で、説明員は多少怪しい敬語のような丁寧語のような言葉を駆使してやって欲しいことの説明を行っている。
IDやパスワードの登録など、一般的なオペレーションはどんなシステムにも必要で、それを理解するのにそれほど時間がかからない。

さて、質問タイムである。
事務屋の部門が企画、導入するシステムというのは、どうも取って付けたようなシロモノが多く、はっきり言って品質グレードが甚だ悪い。
今回のシステムも、説明会の時間内に色々試してみると、マニュアルとは異なった動きや、簡単に権限の超越行為ができてしまうなど、バグを見つけてしまった。

私「ところで、システム上の問題点はどこに申し出ればいいの?」
担当「あのう、我々の部と、xx部さんとyy部さんが協業でやっておりまして、システムの大元は、社外の***さんになります。」(社内の部に「さん」をつける連中はキモイ)
私「だからさあ、どこに言えばいいの?」
担当「あの、はあ、私どもに。」
私「君の部で良いんだね。君が担当なんだね!」
担当「はい・・・」

私「ところで、早くもバグが見つかったみたい。xxをこうして、zzすると、こんなになっちゃう。こんなところまで見えてしまって良いの?」
担当「ええっ?どうするとそうなるんですか?」
私「これくらい確かめておいてくれよ。ところで、このシステムの稼動はいつからなの?」
担当「もう既に運用が始まっておりますが・・・」
私「(唖然)はあ?トライもせずに、こんなバグのまま運用だって?(絶句)」
担当「(堂々と)いろいろと不備があると思いますが、徐々に改善して行きたいと思っています。」

一同、静寂・・・

大したものである。
彼らは、市場をデバッグの現場と勘違いしているらしい。


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伊勢神宮のこと [お寺、神社]

先日の日記で、伊勢神宮への初詣のことを書いたが、その後、神宮のことをもう少し調べようと思い、本を手に入れた。

伊勢神宮―知られざる杜のうち

伊勢神宮―知られざる杜のうち

  • 作者: 矢野 憲一
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 単行本


内宮、外宮にあるいくつかの別宮のうち、荒祭宮、と多賀宮には何故か鳥居がない。
理由はわからないが、この二宮は、荒御魂をお祭りしている事を知った。
荒御魂は、「荒ぶる」神様の姿のことで、和御魂(にぎみたま)が、のどかで和らいだ姿を現すのに対し、強い心で決断力を発揮する姿を言うのだそうである。
荒御魂を祀る神社は、月読宮、若宮など他の場所にもあるそうだ。
伊勢神宮のことを調べると、日本古来の信仰が、自然界の移ろいといかに密接に関わっているのかがわかってくる。
たとえば、日光と水は我々の生活に必須だが、それらは時として飢饉や洪水を引き起こす。
「荒ぶる」のも、「和む」のも、両方が神様の姿で、それらを素直に拝し、受け入れ、共存するという考え方。
ある意味、「こだわり」を持たず、与えられた環境に順応しつつ、自分を自身で浄化することを教えてくれているのかもしれない。

西行をして、「何ごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼれる」 と詠ましめた、神宮。

困ったときにしか神様を頼らない不信心だった自分であるが、古代から連綿と続いてきた歴史の現在章がどのように受け継がれてきたのか、ますます研究したくなってきた。


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「無」について [お寺、神社]

昨日、所用があって東京へ出掛けた。

午前中の新幹線で東京に向かったが、用件は午後2時からであったので、空いた時間で神保町の本屋街を回った後、昼過ぎに目的地の近くの芝 増上寺に参詣した。

増上寺は、京都知恩院に次ぐ浄土宗の大本山で、徳川家の菩提寺としても知られている立派なお寺である。
私の家の宗派でもあり、最近急に信心深くなった自分は、時間の許す限り、寺社を回るようになった。

増上寺の本堂は壮大なもので、ちょっとした体育館ほどの空間が広がっている。
ご本尊が正面、向かって右手には善導大師、左手に法然上人の像が安置されている。

空き時間の過ごし方には色々あるが、喫茶店で雑誌を読むような気分にならなかったので、本堂内に並べられた椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。

ちょうど、昨日は、増上寺の檀家総会の日にあたっていたらしく、しばらくすると、本堂内に沢山の人が集まり、高僧のお話が始まった。
昨年11月に、京都知恩院から、法然上人の遺骨の分骨を頂き、増上寺の上人像下におまつりした旨、報告があった。上人の遺骨が箱根を越えたのは初めてなのだそうである。
その後、美しい読経が行われた。

自分の諳んじているのは、般若心経しかないのだが、普段お世話になっている寺の和尚さんが解説してくれた数々のお経の意味が少しずつ心に染みて来るのを実感したような気がして、うれしくなった。

「祈り」というものは、実は「感謝」と同義なのではないか。
自分はこれまで、「祈り」とは「願い」と、誤解していたのではないか。

「無」という概念が仏教の基本にあるが、明らかに英語訳のemptyとは異なる。
emptyには、「器」の概念があるので、「無」ではない。
nothingは「無」という訳がつけられるが、「無」には、「ない」ことすら「ない」。
そして、「ない」ゆえに「ある」。「ある」がゆえに「ない」という一見滑稽な説明に陥りがちである。

多分、私なんぞ、一生をかけても理解には至らないと思うが、とりあえず、自分にとっての「無」を自分なりに温めておこうと思う。
それが、時に応じて変化したって構わないとも思う。
こうでなくっちゃだめだ、ということなど、「無い」のだから。


伊勢詣で [お寺、神社]

元旦に地元の氏神様に詣でてから、家でうだうだしていたが、天気も良くないので人出も少ないと予測して伊勢神宮へお参りに行ってきました。
同行人はかなりの神社マニアなので、プランはお任せ。

鈴鹿山脈の深山幽谷に分け入り、峠を越えた滋賀県側にある、由緒正しいお宮さんに参詣し、隣の露天風呂に入って身を清め、山を降りて伊勢神宮へ。

伊勢神宮には周知の通り、内宮、外宮と2社あるが、実は、夫々の中に幾つかの別宮があることはあまり知られていない。
多賀宮、荒祭宮、風宮 など、小規模ではあるが、凛としたお社が森の中に佇み、清廉な空間を作り出している。
訪れる人も少ない別宮にて拍手を打つと、清々しい空気振動が耳に心地よい。

両神宮では、平成25年の式年遷宮に向けた準備が進んでいる。
外宮近くの貯木場の池には沢山の檜が浮かび、加工を待っている。
各お社の隣の敷地は綺麗に整地され、6年後の遷宮に備えている。
20年に一度の式年遷宮は、次回が62回目。
62x20=1240(年)・・・
神宮の建築技術などを次世代に伝承していくための大切なサイクルなのだそうである。
1200年前のものが、代替わりを経て、まだここにあることに驚きを隠せない。
人間の一生など、1世紀にも満たないが、人間の知恵や技術は形を変えて連綿と受け継がれている。
神宮は多くを語らず、その威厳を存在だけで示している。
そして、それとともに自分が存在していることに少し安心できる。
日本人の心の中心にあるものは、きっとやすらぎを求めること、なのではないかな、とふと思ったりした。


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阿蘇への旅(3) [旅行記]


九州は言わずと知れた温泉の宝庫である。

阿蘇山周辺にも個性豊かな温泉が湧出し、それぞれに趣のある温泉街を形成している。
今回の短い滞在で、どこの温泉に行こうか散々迷ったが、結局、宿だけは動きやすい「内牧(うちのまき)温泉」に取り、行った都合で行ける温泉に立ち寄ることにした。

黒川温泉は全国的にもその名が知れ渡り、ガイドブックには写真つきで詳しい紹介が載っている。
九州出身の同僚に聞いても、中々評判が良い。
しかし、どうも私はマイナーなモノに興味を引かれる習性があるようで、地図で見つけた「地獄温泉」という名前に惹きつけられ、細い山道を車で登りながらたどり着いた。
手前の「垂玉温泉」にも少し浸かったが、外来入浴が午後3時まで、という制限があった。
地獄温泉の歴史は古く、江戸時代には細川藩の藩士にのみ入浴が許されていた。
「すずめの湯」という泥湯の湧き出る露天風呂が有名で、その湯を満喫できたのは幸運であった。

当然、温泉地に硫黄臭はつき物である。
だが、人によっては、慣れていないと余りに強い硫黄臭に耐えられない。
連れて行った息子は、どうもまだ日本のホンモノの温泉を知らないようで、ところどころに留まっている硫黄の臭気にすっかり参ってしまった。折角の温泉を楽しめなかったようだ。
彼もそのうちわかるだろう。

すずめの湯は、粗末な小屋の中にある「内湯」と、混浴の外湯がある。
どちらも湯は同じであるが、外湯の源泉に近い湯壷はことのほか熱く、とても浸かれる温度ではなかった。
が、もともとの温泉の原型がそこにあることを実感してうれしくなった。

遠い昔、青森の恐山宿坊に泊まった折、寺内に湧く4箇所の温泉も同じように掘っ立て小屋の粗末な湯船に地元の人が沢山入っていたっけな。

地獄温泉の宿は清風荘と言うが、その内湯の「元湯」で、福岡から来たという年配の方に話を聞いた。
昔は、この温泉は湯治場として訪れる人が多かった。
田植えの終わったころ、農家のおばちゃんたちが大挙して押し寄せてきて、1週間ほど疲れを癒して行ったものだそうだ。
だから、長期滞在用の施設が今でもちゃんとそろっている。

今では、温泉ブームに乗って老若男女が東奔西走している時代。
温泉の原点は、労働の疲れを癒すところにあって、今もそれは変わらない。
そして、これからも・・・


阿蘇への旅(2) [旅行記]



資料によれば、「阿蘇山」というのは俗称で、正確には、「阿蘇五岳(あそごかく)」と呼ぶらしい。
五岳とは、
高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳、根子岳 で、北側から遠望すると、釈迦涅槃像に見えることでも有名だそうだ。
かつて、21年前、部長の言葉に突き動かされて阿蘇を訪れた際、それほどの感銘を受けなかった理由のひとつは、この五岳の遠望がかなわなかった為だと言う事に今回気付いた。
阿蘇山一帯は、世界最大級のカルデラ地形で、阿蘇山を中心に、周囲250キロに及ぶ外輪山を構成している巨大な盆地である。
このカルデラは、30万年前からの噴火活動で形成されたもので、外輪山の切れ目がなかったので、雨水が溜まり、雄大なカルデラ湖であった。
その後の地殻変動で外輪山の一部が崩れ、水が流れ去った後に、阿蘇谷、南郷谷ができたということである。
カルデラの中に町があり、人々の生活があるという、大変珍しい場所なのだ。
かつて、自分の目で見た地形の中で、「実物を見る以外に説明のしようがない」と感じたものに、米国のグランドキャニオンがあるが、阿蘇の歴史は、それに勝るとも劣らない。
その大きさを知るにつけ、地球の活動規模の大きさを実感する。
阿蘇の雄大さは、外輪山からの五岳の眺望にある。
その眺めが、日常の世迷いごとに振り回されている自分を実感させ、もともと自分は何もできない小さな存在で、失うものなど何もないのだ、安心せよ、という声が聞こえてくるようで、不思議な安堵感を与えてくれた。


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阿蘇への旅(1) [旅行記]

週末に思い立って熊本は阿蘇へ出掛けた。

なぜ、熊本?
理由は簡単。取れる飛行機の便と時間がものすごくよかったから。
土曜日の朝、8時にセントレア発、阿蘇で一泊して、熊本発は、翌日の午後8時。
まるまる二日間を旅先で過ごせる日程を週末だけで組めるなんてそうそうない。

実は、阿蘇を訪れるのは21年ぶりである。
前回、まだ独身だったころ、当時の部長の「阿蘇の外輪山を見ると人生観が変わる」という一言により、鹿児島での先輩の結婚式の帰り、休みを一日よけいに取って、電車とバスを乗り継いで阿蘇を旅した。

阿蘇山塊の中心は「中岳」である。
噴火口からは、いまだに噴煙が立ち昇り、火口底には煮えたぎった湯が溜まっている。
硫黄臭が鼻を突き、火口を中心に数キロは草木も生えない火山灰地になっている。
21年前には、確か、火口に飛び込めるくらいの縁まで近づいて肉眼で火口底を見ることができたのだが、10年ほど前に、ガスにやられて亡くなった人が居て、それ以来、風向きによって立ち入り禁止区域ができ、残念ながら、100メートルほど離れた展望所から火口を眺めることしかできなかった。
確かに、亜硫酸ガスを大量に吸い込んだら、かなりやばいことになるだろうことは想像に難くないが、何か事故が起こると、管理責任を問われる側は何かしらの手を打つ必要が生じてしまい、多少臭くたって、やばければ息を止めてでも逃げる自信(多分に慢心なのだろうが)のあるわたしの様な者には、折角の機会を削ぐ、迷惑千万な話だと思った。

中岳から少し下った草千里ヶ浜にある「火山博物館」にも行ってみた。ここも21年ぶり。
展示物も21年の歳月を感じさせるものばかりで、いささかレトロな陳列である。
変わらないことは良いことなのだろう。
今様に金をかければすごいCGや音響効果で数段リアルなものを演出で作れるのだろうが、2,30年の歴史を思わせる、「東映」製作のビデオがパネル展示とともに、スイッチを押すと上映される、という昔ながらの博物館に、自分の少年時代すら感じさせられた。
訪問客に、やたら韓国、中国人が多く、ハングル文字の書かれた観光バスで乗りつけなど、客層が明らかに変化した以外は何も変わらない。



工業英検のこと [雑感]

先日受験した工業英検2級の合格通知が来た。
1級はA判定の不合格(あと一歩、ということらしい)だったので、幾分救われた。
でも、2級は、問題指示文を一部読み落とし、語数制限をオーバーしてしまったことに終了30秒前に気付いて、慌てていい加減な修正をしたまま答案を出してしまい、大減点を覚悟していたので、正直ホッとしている。
合格通知に記されていた今回結果は、

    受験者 合格者  合格率
1級  208  27  13%
2級  426 148  35%
3級 1156 616  53%
4級 1956 830  42%

とのこと。
結構難関だったようである。


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遅い紅葉 [お寺、神社]


久しぶりにお参りした岩津天神。
盛りは過ぎて、人もまばらでしたが、紅葉は綺麗だった。
昨年が異常に寒かっただけに、今年の暖冬が奇異に感じられる。



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12月の寒いヨーロッパでのこと [旅行記]


グリューネヴァルトの祭壇画


コルマール 小ベニス

去年までの3年間は、連続して12月の欧州詣でをしていた。
12月初旬が誕生日の娘には、毎年悪いことしたなあ、と思いつつ、土産をついつい買い込んでしまったものだ。
今年は、珍しく12月に入ってもまだ日本にいるけれど、ドイツ情報によれば大変な暖冬とか。
私には、寒波の来襲したドイツしか経験できない運命がついているのかもしれない。

2年前の12月、たまたま手にした本で紹介されていた「グリューネヴァルトの祭壇画」をどうしても見たくなり、日曜日の寒い朝、電車でシュツットガルト駅からストラスブールを経由してコルマールを訪れた。

ドイツ歴史の旅

ドイツ歴史の旅

  • 作者: 坂井 栄八郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1986/08
  • メディア: 単行本


ストラスブールで乗り換えの合間に軽く食事をし、コルマールには昼過ぎに着いたものの、なんと目当てのウンターリンデン博物館は2時まで昼休み!
途方にくれて、寒いのに仕方がないのでコルマールの街を一人で散策し、写真を撮ったりして過ごしたが、凍えそうだった。
一人旅は私には向いていないとしみじみ思った。時間が余ると何をして良いかわからないのだから。

グリューネワルトの描いたイーゼンハイムの修道院由来の祭壇画は、ドイツ宗教絵画の最高峰と称され、絵心に乏しい私にもその凄まじいばかりの描写が網膜に焼き付いて離れないほど。

コルマールは、思ったより小さな街で、祭壇画を見てしまうと、ウンターリンデンの開館前に一通り街を回ってきてしまったので、特にすることもなく、予約してあった帰りの電車を待つことにしたのだが、日本では当たり前にあるはずの駅前喫茶のような場所が全然見当たらない。
駅に来てはみたものの、電車の時間まで1時間半以上もある。コルマールはもっと大きな街で、駅前にマクドナルドでもあると思っていたのがそもそもの間違いだったと、そのとき気付いた。
それでも、暖房の効かない構内で持っていった本を読み、MP3を聞きながら過ごし、コルマールを発ったときには既にすっかり日が暮れて、外は闇。

朝、シュツットガルトで買ったチケットと一緒に、A4の紙に印刷された乗り換え案内の表を頼りに、ストラスブールでローカル線に乗り換えることになっていたのだが、ローカル線が5分ほど遅れて到着。そのときは、まだ何も心配していなかったのだが、その2両編成のローカル線に乗ってしばらく走り出し、10分ほどでライン川を渡り、ドイツに入ったころから、にわかに不安が募りだした。
何しろ、外は真っ暗で、駅に停まっても駅名がわからない。
車内アナウンスなどぜんぜんない気配で、周囲の会話は全部フランス語かドイツ語。Appenweiserなる駅で、9番線に着き、1番線の電車に乗り換える、と手元の紙からは読み取れるが、頼りになるのは到着予定時間だけなのに、この電車は元々5分遅れてる。各駅に停まるが、乗換駅まで、一体いくつ駅に停まるのか全くno idea状態・・・遅れを取り戻しつつあるのか、5分遅れのままなのか、はたまた、更に遅れが拡大しているのか・・・
おまけに、乗ったときに一番最初に乗ってしまったので、随分混んだ車両のドアから一番はなれた奥の席に座る羽目になり、すぐには降りられない、どうしよう・・・
そうこうしている間に、Appenwiserなる駅への到着予定時刻を若干過ぎて真っ暗な駅に電車は停車した。9番線から1番線への乗り換えだからきっと大きな駅だろうと想像していたのだが・・・
意を決して、周囲の若い連中に、Is this Appenweiser?と英語で聞いてみたが、突然あわてだした変な東洋人に皆、怪訝な顔をするばかり。降りそこなったらまずいので、一旦人を掻き分けてドアからホームを眺めると、暗いホームに立っていた駅名のプレートは、なんだか全然別の駅名が書かれている。
そんな所で降りなくて本当によかったのだが、再び走り出した列車の中で、隣に立っていた少女に、乗換駅の紙を見せると、指を2本立てて、まだ二駅あると教えてくれた。

結局、Appenweiser駅では大勢の乗客が降りたのだが、驚いたことに、その駅は9番線と1番線しかなくて、しかもその間は300メートルほど離れていた。
つまり、ローカル線会社軌道の駅と、ICEなどの高速会社軌道が別々になっている、日本でも後からできた新幹線の駅が在来線の駅から妙に離れているような駅だったのだ。

カールスルーエまでの列車を待っている間に、今度は1両編成のローカル列車がやってきたのだが、ホームのずいぶん端に停車したため、離れた場所で待っていた老婦人が懸命に車両に向かって急ぎ足で近づいていった。
あと、20メートル程のところまで来たが、運転手には、暗くてその老婦人が見えなかったのだろう、無情にも彼女を残して列車は出発してしまった。
我々の待つ列車は、今度は定刻通りにやって来た。
そこから先は別段の問題もなく、シュツットガルトに戻ってこれたのだが、寒くてスリリングな一日に大層疲れたものだ。

それにしても、Appenweiser駅で置いていかれたあの婦人はその後どうしたろう?

時々、思い出しては気にかかる。



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